最高級品はハンドメイド
趣味の範囲を超えて没頭した数々のハンドメイド作品。そのジャンルも幅広いものに・・・やはり、どんなに高級なモノよりも愛着の湧く所謂『手作り』作品たち。『妥協する位なら作らない』という信念の元、どれも製品としての役目をしっかりと果たしております。その自慢も兼ねたハンドメイドのオススメブログです。
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ブラックボックスを開けたい ラジオ編 Vol1
船舶用無線器の修理のアルバイトを始めたのは、小学6年生でした。
修理だけでなく、当時の郵政省「近畿(地方)電波管理局」が無線通信設備に対し行う「無電検査」の準備も含みました。漁船等の「船検」のようなもので、無線局の「検査」です。一般の方が自動車を保有していて、車検を受けることをイメージされるとよいでしょう。
このアルバイトをするきっかけとなったのは、当時、私が育た家が所属する商店街の電気店で、テレビの修理のアルバイトをしていたことが発端でした。当時、テレビ修理技術者試験という検定試験があって、この試験は、途中から、カラーテレビに対応するため、2つの試験を合格すれば、カラーテレビを修理できる能力の保有者としてお墨付きを得られました。私が取得したのは、この試験です。5年生でした。のちに、通産省の「カラーテレビジョン受信器修理技術者」として、国家資格になりました。
私はこれを受験していませんが、特例により、同資格保有者として認定を受けることができました。私を雇っている電気店は、私を拘束しているのでなく、頼まれたら、お客さん宅へ出張訪問です。近所では、小さな少年が、電子部品(真空管など)や計測器の入ったコンテナを抱えて、訪問するので、結構可愛がられましたよ。サイダーやおやつを頂きました。それから、私がお金を持たず出没する、ナンデヤネン共和国の電気街「日本橋」の無線器店に認められ、無線器修理アルバイトが始まりました。ところが、店主は私に、決して、アマチュア無線家宅の依頼を与えることはありませんでした。理由は、マニアが子供から技術的支援を受け入れるこは、プライドが許せなかなかったようです。
なので、専ら、港に係留している船舶の修理専門だったのです。この時代、ブラックボックスは小さなものでしたし、私にも開けることができました。
電子工学への興味は、3年生(1969年)のとき、月着陸船アポロからの通信の様子のテレビ中継「・・・ピー」を挟んで、会話されていたのを見て、少年の心をががっちり捕えられたからです。
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